オーシャンシティ (Ocean City)
オーシャンシティと共に周辺地域の多くが建設された土地は、イングランド人トマス・フェンウィックがインディアンから取得したものだった. 1869年、実業家のアイザック・コフィンが最初のビーチに面したコテージを建設し、有料で客を受け入れた. 当時の訪問客は駅馬車や渡し船で旅して来た. 彼らは海岸沖で釣りをし、砂浜の長い帯に打ち寄せる大西洋の自然美を楽しみ、貝殻を集めあるいは寄せて来る波を座ってただ見つめているだけだった.
それから間もなく、簡素な寄宿舎が砂浜に建てられ、メリーランド州東海岸、ボルチモア市、フィラデルフィア市、デラウェア州ウィルミントンなどから著名な実業家を引き寄せる活動があった. 彼らは砂嘴を調査するためにも来ていた. そこを開発する判断がなされ、250の区画に切られ、土地の開発を助けるために会社が設立された. その会社の4,000株が1株25ドルで売られた.
1870年より以前、現在のオーシャンシティとなった場所は「大洋への淑女のリゾート」と呼ばれていた.
町で最初の大きなホテルであるアトランティック・ホテルは1875年7月4日に開業した. このホテルは当初アトランティック・ホテル・カンパニーが所有していたが、1923年にチャールズ・W・パーネルが買収することになった. 現在もパーネル家が所有し、経営している. 海浜と大洋の他に400室以上ある部屋のビジターにはダンス室やビリヤード室もあり、長年オーシャンシティでは最も北にあるアトラクションとなっている. 1878年には、観光客がバーリンから列車で来られるようになり、町を横切ってサインパクセント湾の岸に行けた. 1881年にはサインパクセント湾を岸まで横切る線が完成し、ボルチモア・チェサピーク・アンド・アトランティック鉄道の旅客を直接、町のフィラデルフィア・アベニューにある駅に連れてきて、帰りは大西洋で獲れた魚を大市場に運ぶことができた.
オーシャンシティ入り江は1933年の大きなハリケーンで形成された. このハリケーンはサインパクセント湾を横切る鉄道も破壊した. この入り江はオーシャンシティとアサティーグ島を分離した. アメリカ陸軍工兵司令部がこの自然の作用を利用して、入り江をオーシャンシティの恒久的な南端にした. この入り江で大西洋の漁場へのアクセスが容易になったので、オーシャンシティは大西洋岸中部の重要な漁港になった.
1930年代後半、アメリカ陸軍工兵司令部がオーシャンシティの湾側に新しい水路を浚渫し、大型船がサインパクセント湾に入れるようにした. この浚渫土はオーシャンシティの西岸に埋められ、シカゴ・アベニューとセントルイス・アベニューを創り出し、以前は湿地でしかなかったところが新しく開発できるようになった.
オーシャンシティは戦後のブームの間に起きた市域の急速な拡大故にメリーランド州でもよく知られる町になった. 1952年、チェサピーク湾橋が完成し、ボルチモア・ワシントン大都市圏から容易に来られるようになった. 1964年、チェサピーク湾橋トンネルも完成し南への新しい道が開かれた. オーシャンシティは東海岸最大級のリゾート地となった.
1970年代までに、大企業が繁栄し、15,000戸以上の集合住宅を建設し、高層集合住宅の壮大な景観を創り出したので、投資家は一瞥で大洋と打ち寄せる波を見られるようになった. しかし、1980年代を通じて、さらに1990年代に入って、海浜の幅が縮み始め、一連の海浜再生プロジェクトを始めた.
当初あった桟橋は1994年の火事で焼けた. 桟橋の外れ近くに小さなウォーターパークや、大型の通り抜けお化け屋敷があり、ボードウォークの側にはニューオーリンズ・スタイルのハリウッド・イン・ワックス・ミュージアムがあった. 1980年代後半、この蝋人形館がフォトン・レーザー・タグに転換された. その建物は現在、「リプリーのビリーブ・イット・オア・ノット!」博物館になっている.
地図 - オーシャンシティ (Ocean City)
地図
国 - アメリカ合衆国
アメリカ合衆国の国旗 |
アメリカ合衆国(United States of America)の頭文字を取って「U.S.A.」もしくは「USA」、合衆国(United States)の頭文字を取って「U.S.」もしくは「US」、または単にアメリカ(America)とも称される.
通貨 / 言語
ISO | 通貨 | シンボル | 有効数字 |
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USD | アメリカ合衆国ドル (United States dollar) | $ | 2 |